2月はじめ、アメリカ東部へ出張した。ワシントンでは5大学共同の日米関係に関するセミナーを開催、ニューヨークへ移動して慶應ニューヨーク学院の理事会に出席した。この冬アメリカ東海岸は例年にない積雪で、ワシントンのダレス空港に着陸する際も雲が低く垂れこめ、地上がなかなか見えない。がたがた揺れながら搭乗機はどんどん高度を下げる。雲のなかを飛び続け、ようやく視界が開けたと思ったら、地面はすでに間近に迫っていた。あっという間に滑走路の端に到達してタッチダウン。窓の外で雪が横殴りに降っている。あたり一面の銀世界だ。税関を抜けて空港の外に出ると、寒さが骨にしみる。凍った空気の匂いがし感触がある。ワシントンで何度も迎えた厳しい冬を思い出す。こんなときなつかしいアメリカへ帰ってきたなと思う。
翌日いったん雪は上がり冬の青空が町を覆ったものの、仕事をすませてワシントンを去るころにはまた天気があやしくなり、雪がちらつきはじめた。それでも無事にニューヨークへ飛行機で移動する。ラガーディア空港へ着陸態勢に入ったとき、マンハッタン島の摩天楼が左側の窓からよく見えた。島の向こう側ハドソン川を、1隻の大きな客船が下っていく。客船ターミナルを出て向きを下流に変えたばかりである。この冬のさなかに出港するのはどこの何という船だろう。気になる。
2日にわたりニューヨーク学院で仕事をするうちに、中西部からワシントンにかけて猛烈な吹雪に襲われつつあるというニュースが届いた。もしかすると出発の日の朝ニューヨークも吹雪になる。そうすると飛行機が飛ばないかもしれないとのこと。まあいいや。そうなったら雪のマンハッタンに籠ろう。出発前夜ホテルの部屋でベッドに寝転がり、ライトアップしたクライスラービルとエンパイヤステートビルを眺めながら、安らかな眠りについた。
翌朝目がさめると、まだ雪は降っていない。クライスラービルとエンパイヤステートビルも相変わらず静かに立っている。念のため早めにホテルを出発した。土曜日の朝、普段なら1時間かかるところを、わずか20分でケネディー空港に着く。まだ出発時間まで2時間半以上ある。そのうえ東京からの便が遅れ、結局出発がさらに2時間延期になる。仕方ない。ラウンジの外が見える席に陣取り仕事をしながらひたすら待つ。そのうちに雪が降りはじめた。次第に横殴りの雪に変わる。飛行機は無事に飛ぶだろうか。となりにイギリス人の男性が座る。夜のロンドン行きに乗る予定だという。雪で空港に来られなくなるのを恐れて、朝早くホテルを出た。これから10時間ほど待つという。ご苦労さまである。聞くとオックスフォードの郊外、テムズ川のほとりに住むという。降りしきる雪を見ながら、2人で初夏のテムズの美しさについて、テムズ川のボート遊びのすばらしさについて話をした。春がくるのを待ちわびながら。
いったん搭乗して動きはじめた全日空の東京行き009便ボーイング777-300型機は、誘導路の途中で一旦止まり、ディアイシングをすることになった。飛行機の翼や胴体に雪が凍りつくと、重くて離陸できないことがある。1981年、それが原因でフロリダ航空のジェット機がワシントンのナショナル空港離陸直後ポトマック川に墜落した有名な事故があった。それ以来積雪と低温が重なるときには、特殊な溶剤をかけ凍った雪を溶かしてから離陸する。
伸縮自在の作業台を乗せたトラックがすぐに到着し、作業台がぐっと持ち上がって私の目の前にやってくる。作業員の女性がこちらを向いて凍結状況を念入りに調べている。目が合いそうなほど近い。挨拶しようかしらん。そう思っているうちに消防ホースのようなノズルを主翼に向けて発射する。大変な勢いで液体が飛び出す。みるみるうちに翼がきれいになった。何回も溶剤を発射し機体を点検し、ようやくOKのサインが出る。
飛行機は再び動きだし滑走路の端に到達した。管制塔の離陸許可を受けエンジンを全開にして動きはじめる。ほどなく無事に離陸、あっという間に雲のなかに入る。大吹雪はニューヨークの南30キロくらいまで迫っていたようだが、私たちは何とか脱出に成功した。イギリス人の男性は無事に飛び立てただろうか。
ニューヨーク州の北から五大湖上空、トロントとスーサンマリーの真上を飛びぬけ、13時間半後には成田に到着する。途中十分睡眠をとり、仕事をし、食べて飲んであっという間である。すぐに税関を出てバスに乗り、横浜シティーエアターミナルに着いてタクシーに乗り換え、無事帰宅した。1週間のアメリカ出張はこうして終わった。
とここまで雪以外には特に驚くようなことのない旅であったのだけれど、安心するのはまだ早い。YCATでタクシーに乗りこむと、運転手さんに目的地を聞かれた。
「山下町です。近くへ行けばわかります」
「はい、お願いします」
ちょっと沈黙があって、運転手さんが再び口を開く。
「お客さん何をなさっているんですか?」
「教員です」
「じゃあ、外国で教えているの?」
「いや、日本です。大学で国際関係の仕事を担当しているので」
「ああそうですか」
またちょっと沈黙。そして運転手さんがまたぽつりと言う。
「お客さん、日本語うまいですねえ」
えっ?何だって?一瞬聞き違いかと思う。
「運転手さん、僕何国人に見えますか?」
今度は運転手さんがびっくり。運転中にもかかわらず、振り返って私をまじまじと見て、
「ええっ!お客さん、日本人なんですか?」
念のために記すと、ここまでの会話はすべて日本語である。それなのにどうして外国人だと思ったのか尋ねたら、運転手さん曰く、日本語の発音がちょっと違うし、声の出し方が異なる。外国人を乗せたとき後ろの席から聞こえてくる日本語に似ていた、それで外国人だとばかり思ったというのである。降りるとき帰ったら妻に話すと言ったら、運転手さん「私も家内に話しますよ」。
確かに若いころはよく外国人に間違えられた。特に中国人や中国系アメリカ人に間違えられることが多かった。しばしば買い物に行った中華街の店で、あるときおばさんに「あなた上海、広東?」と出しぬけに問われたことがある。目黒の中華料理店に入ったとたん中国語で迎えられたこともあった。新婚旅行の帰路、大韓航空の機内で妻と日本語で話しながら朝日新聞を読んでいると、パーサーがやってきて質問をしてもいいかと英語で尋ねる。いいですよと答えたら曰く。"Why are you reading a Japanese newspaper?"
あるときアメリカに仕事で飛んで到着した晩、小説を読みながらデリでサンドイッチを一人で食べていたら、見知らぬ東洋人が英語で声をかけてきて、「君、日本語勉強しているの?」。またあるとき羽田空港のカウンター前で一人立っていたら、小柄なおばさんが近づいてきて英語で台北行きの飛行機は何時に出るかと私に聞く。「私ここで働いていないのでわからないんですけれど」と私も英語で答えると、おばさん「サンキュー」といってつかつかとカウンターの女性従業員に近寄り、「すいません、台北行き飛行機、何時に出ますか」とまったく自然な日本語で聞いたのには唖然とした。
でもこれらは、すべて黙っていたか英語で話していた時の経験である。そして多くが外国での出来事である。しばらくアメリカにいると、アメリカっぽくなることも若いころはあったかもしれない。そういう自覚もある。でもこの歳でこれだけ日本に長く暮らして、しかも日本人と日本語でしばらく話してから「ええ!あなたは日本人ですか」と言われたのは、初めてだ。
秘書のMさんにも外国人だって言われるし、いったい私は誰なのだろう。私はどこから来てどこへ行くのだろう。私はなぜここにいるのだろう。「異邦人」という言葉が脳裏に浮かぶ。またどこか遠くへ行きたくなった。
(掲載日:2010/02/18)