友人で、「日本文化の師匠」である松岡正剛さんは2003年以来、年数回、「連塾」という"すごい"イベントをやっている。それがどんなに"すごい"かは、また別の機会に説明するとして、一ヶ月前に開催された連塾のゲストは、萩尾望都、松本健一、横尾忠則、福原義春、小堀宗実という顔ぶれだった。『若き北一輝』『三島由紀夫 亡命伝説』『昭和天皇伝説』など刺激的な本の著者である松本健一の革命思想の話は、孟子の「王民論」から陽明学に及び、市ヶ谷の自衛隊本部バルコニーでの三島由紀夫自害の顛末に至った。
松岡の『日本という方法』によると、徳川幕府は林羅山らに命じて「朱子学の国家形成的なイデオロギーを導入し」「世俗社会の規範や道徳を儒学に借りた」。しかし、朱子学とともに入ってきた(日本的)陽明学には、義についての日本的解釈が加わり、その結果、「近代以来、危険視された」という。それは「主君に楯突いた行動が「義」として評価されることになり」「それが聞き入られなければ自身で死を選ぶ」ことにつながりかねないからだという。
先日来ニュースショーを賑わしている「鳩の乱」のうち、弟の邦夫の行動が、ややこの類型として世論の賛同を得るなど、どうも日本社会はこのパターンが好きなようだ。この日曜日のNHK「天地人」でも、太閤秀吉からの誘いを敢然として断った直江兼続は(当然ながら)聞き入られなければ死を覚悟していたということで、視聴者の共感まちがいなしという段取りだ。
日本らしさが窮屈で大学を出てからアメリカに逃げていった私も年とともに日本のよさを理解し、感じるようになってきた。「油絵のように塗りつぶした美しさより、余白を残し、ないものを見る美しさ」に共感する。ボランティアやソーシャルイノベーションについてよく言う「弱さの強さ」もその辺からの発想である。しかし、高倉健さんの任侠映画での「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」くらいまではよいとして、死を選ぶことを「潔し」とする、というより、そのような生死感を安易に『美しきもの』とするポピュリズム的扱いには、正直、かなり違和感がある。
(掲載日:2009/07/02)