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2009.11.12

おかしらの好きな街|國領二郎(総合政策学部長)

商社マンを親にもって、あちこち転々としながら育ったのだが、ものごころがついたころに住んでいて、幼稚園から小学校の大半を過ごした赤坂がやはり一番懐かしい。見晴らしがいい場所にいくと、建設中の霞が関ビルが見通せたような時代の話である。東京オリンピックの聖火ランナーを青山通りに見に行ったりもした。親に言わせると私は近所に住んでいた力道山に遊んで貰ったらしいのだが、ぼんやりとした思い出しかない。

実際に住んでいたのは、多くの方がイメージする赤坂より青山寄りで、表の料亭街の背後にある丘の上で、赤坂台町という粋な名前がついていた。千代田線ができるまでは駅が遠くて、名の通り坂が多くて到達するのが大変だったこともあって、都心にありながら郊外の雰囲気もある場所だった。繁華街のバックヤードで、水商売の人や、官舎の高級官僚や、芸能界の人や、デザイナーといった、雑多な人がごっちゃになって住んでいた。いまはもう実家は移ってしまっていて、かわりに目と鼻の先に編集工学研究所が引っ越してきている。

幼稚園のころ、小唄の師匠がそばに住んでいらして、そこの孫が同い年で、友達になった。その母上が大変に美しい方で、初めて会った時にびっくりしたことをおぼえている。ひょっとするとあれが初恋だったのかもしれない。友達の家に行くと会えるのが楽しみだったのを覚えている。残念ながらその子は早々に引っ越してしまった。こんな思い出があるからやっぱり赤坂が故郷なのだろうと思う。

小学校は檜町小学校という、今は赤坂小学校がある場所の学校に通った。虎屋さんのそばにあったかつての赤坂小学校と檜町小学校が統合された時に、名前をとられてしまったのが、ちょっとしゃくなのだが、父親が赤坂小学校の卒業生なので、赦している。

小学校の名前をとられて悔しいから言うのではないが、住居表示変更で町名捨てさせられちゃったのはやはりもったいなかったように思う。「赤坂台町」と「赤坂7丁目」じゃえらい違いだ。赤坂も頑張って日本橋のように町名残せば良かったのに。街に愛が失われてしまったような気がする。お神輿をかつぐ時の気合いも違うだろう。治安なんかにも影響するのではないだろうか。今からでも遅くない。郵便番号とナビがこれだけ浸透したのだから、町名を戻しても不便はないのでは?

(掲載日:2009/11/12)