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2009.07.30

おかしらの日常:「ことばの力」に魅せられて|山下香枝子(看護医療学部長)

夏休みが近づいた金曜日。いつもの学生達の賑わいは鳴りを潜め、警備員の戸締りを確認する音だけが私の研究室の前を通り過ぎていく。それを合図に、終電に乗り遅れないように帰り支度を始める。本棚から手軽な1冊を抜き出し、それをリュックに滑り込ませる。そして急いで駅に向かう。
今日は早朝から信濃町キャンパスにて用事をすませ、10時にSFC看護医療学部に向かった。午後4時にSFCを後にし、三田での用事を済ませ、午後7時に信濃町の研究室に戻って来た。人の動きが少なくなった研究室で、期末試験の採点や授業の整理を済ませ、やっと週末の混みあった小田急線に飛び乗った。今日は運よく、下北沢駅で前の席が空いたので座ることにする。密集した車内では本を読むことにも気が引けるが、相武台前までの約45分間、リュックに滑り込ませてきた1冊に目が通せる!"と、内心喜ぶ。

今日の1冊は『ことばの力(大岡 信 著、花神社、1987)』である。彼の講演速記に加筆されたもので、雑誌『世界』に発表されたものを、書籍として新装出版したものである。今から20年も前に読み、言葉で思索する人の感性や知性に刺激され、深く感じ入った。しかし、細部の記憶は定かでなく、否むしろすっかり消え失せていたので、発見と新鮮さを満喫した。

私が彼の著述に魅了されてしまう「さわり(一部)」を紹介したい。
「五千年も以前にさかのぼる時代の人達が、粘土を叩いてかためた板にかたい筆で文字を彫り刻んで書き残した楔形文字、それがようやく解読されるようになってから、まだわずか一世紀ほどしか経っていない。五千年の歳月を経てそれら異形の文字がふたたび人類共通の持物になり、われわれにさえ翻訳を通じてわかるようになったということ、言いかえれば、それら古代人の思想と感情が、隣人のそれよりもある意味で明瞭な形をもって本の中から立ち現れるということ、・・、つまり、言葉というものは、長い時間を一瞬にしてとびこえ、われわれの心に飛び込んでくるという意味で、一種のタイムマシーンだともいえるのではなかろうか。・・・」と。

人間は、1200〜1500gしかない脳の中に、100億とも180億ともいわれる大脳皮質細胞を持ち、何千年にもわたる営みの中で「ことば」を生み、発展させ、意思や情報を伝え、文明を作り、「理解すること」可能にしてきた。よくよく考えてみれば'すごいこと'である。
もうすぐ、長期の夏休みに入る。混んだ車内ばかりではなく、たまには涼やかな木陰の下で良書を楽しみたいと思う。若き塾生の皆さんが、この夏、爽やかな清涼飲料剤に勝る書物に出会ってほしいと願いながら…

(掲載日:2009/07/30)