MENU
Magazine
2009.11.05

海原にも秋|阿川尚之(SFC担当常任理事)

 秋らしいさわやかな日が続く。週の終わりごろ雨が降ったが、週明け再び晴れて寒くなった。つい先日まで汗ばむほどの陽気だったのに、そろそろ冬の気配がする。

 秋学期に入って週に一度SFCへ通っている。三田での仕事に疲れた体に、SFCの広い空間が心地よい。毎日書類やコンピューターの画面を見続けた目は、SFCの木々の緑や紅葉に癒される。何よりも授業が楽しい。知り合いの学生が声をかけてくれる。 

 三田に移って改めてよくわかったのは、慶應義塾という大きな仕組みを動かすため、実に多くの人が働き、ありとあらゆる役割を果たしていることである。やらねばならない仕事と片付けねばならない雑用がほとんど無限にあって、よくみんなこなしている。私はくたびれた。

 さぼっても、さぼっても、仕事の山

 これだけ仕事が多いと、目を通さねばならない書類も多い。特に決済を求める稟議書というのがあって、これは責任上よく読まないといけない。しかし中には読んでも頭に入らないのがある。論理が飛んでいる。誤字脱字が多い。矛盾している。書いた本人が理解していない。

 そのうえ最初から最後まで、びっしり漢字とカタカナの外来語が並び、一つも切れ目がないような書類がある。読みにくいこと甚だしい。大学という組織は漢語と外来語が大好きだ。「心の病(やまい)」と言えばいいのに「精神疾患」、「さまざまな技(わざ)の集まり」と言えばいいのに「スキルミックス」。大体学部名からして「総合政策学部」「環境情報学部」「看護医療学部」と漢字のオンパレード。できれば2文字くらい漢字を減らしたい。SFCのカリキュラムだってそうだ。私が学部長として担当した「総合政策学の創造」。ときどき「創造政策学の総合」と言い違えた。そういえば今年のORF、テーマは「断面の触感」だそうだが、「ラーメンの食感」と聞こえる。

 もちろん天平の昔から、中国語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、英語、ドイツ語と、外国のことばを使って外から文明を受け入れてきた日本である。ある程度外来語に頼るのは仕方ない。英語だって、ギリシャ語、ラテン語、フランス語起源の言葉だらけだ。日本の場合、特に漢語は定着しているし、簡潔でわかりやすい。何せあれだけ漢学者を嫌った福澤先生でさえ、「独立自尊」、「自我作古」、「半学半教」と、そのキャッチフレーズは漢語ばかり。いまさら福澤さんの言葉を、「一人で立って力強く歩きなよ」、「この私がいにしえを作って見せましょう」、「君に学び、君と学び、君に教える」と書き直すわけにはいくまい。

 それでもなお、漢語やカタカナ語の使いすぎはよくない。ある程度は「やまとことば」を混ぜたい。古代以来、歌人、俳人、そして詩人は、美しい日本語を使い、また創ってきた。「古池や 蛙飛び込む 水の音」が「故池蛙跳躍シテ水没セルヲ聞く」では、俳句になるまい。現代でも株式市場では「寄りつき」「高止まり」「小幅」「弱含み」「大引け」などと、やまとことばを使う。帝国海軍以来の伝統で、「出港用意」「両舷全速前進」「合戦準備」など、指揮命令にはガチガチの漢語を使う海上自衛隊も、なぜかその艦艇名には「むらさめ」「さざなみ」「せとぎり」「まつゆき」「たかしお」など、まるで古今集の歌に出てくるようなやさしいことばが多い。

 ちなみに10月25日の自衛隊観艦式には、観閲部隊先導艦「いなづま」にほぼ10年ぶりで乗艦。風が強く白波が立つ相模湾洋上を、観閲官をつとめる管副総理・主催者の北澤防衛大臣の座上する観閲艦「くらま」を後ろにしたがえて航行、「あしがら」「はたかぜ」「さわかぜ」そして新造ヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」と続く受閲艦艇部隊と反航した。その話を書きだすと長くなるから、やめる。

 何のことを書いているのか分からなくなったが、そんなわけで仕事ばかりしている。そうすると、無性に海へ出たくなる。ちょうど結婚30年の記念すべき時でもあり(と理屈をつけて)、10月初旬、横浜から福岡まで2泊3日の船旅をした。乗ったのは商船三井の客船「にっぽん丸」。このところ毎年のように、短いクルーズに参加して海に出る。

 海はいい。海はすてきだ。海から見るわが国土は美しい。本州の沿岸を「にっぽん丸」は穏やかな波頭を次々に乗り越えて進む。甲板のレールから乗り出すようにして海面を見下ろすと、船首が心地よい波音を立てながら海面を切り、波は白く泡立って背後に流れる。その波が砕けて飛沫となって散り、波はやがてうねりとなって船尾後方に去る。船はゆっくり上下し、そのたびに遠くの海岸が、町が、背後の山が、そして空に浮かぶ雲が、上がったり下がったりする。

 航海2日目の早朝、神戸に入港。船客の一部を下ろし新しい客が乗り込んですぐに出港した。この日は一日瀬戸内海を東から西へ走る。午前中、明石大橋、午後瀬戸大橋、そして日没の頃来島海峡大橋と、3つの大きな吊り橋をくぐった。船首正面に見えてきた橋はみるみる大きくなり、橋の上を走る車が見え、やがて船がその下に入ると甲板の真上を前から後へと巨大な橋が移動する。くぐりぬけると船尾から徐々に遠ざかり、小さくなってやがてもう見えない。

 瀬戸大橋四国側の付け根に、沙弥島(しゃみじま)という場所がある。いまは埋め立てられて地続きになっているが、古代には狭岑島(さみねのしま)といって周囲2キロほどの小島だった。ここに柿本人麻呂の歌碑があることを、数年前ある人に案内されて初めて知った。人麻呂はこの島をおそらく海から訪れた。舟に乗って瀬戸内海を旅する途中だったのかもしれない。そして浜に上がり、磯の岩のあいだに一人の若い男が倒れて死んでいるのを見つける。嵐で遭難し流れ着いたのか、あるいは岩場で倒れ息絶えたのか。古代こうした死は、海で山で珍しくなかった。人麻呂はこの見知らぬ若者の死を悼んで、歌を詠む。

 「狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音 しげき浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを」

 万葉集巻之二に収められた、人麻呂の長歌の一部である。

 夕刻、瀬戸内海最大の難所、来島海峡に差し掛かる。厚い雲に覆われ、あたりはだいぶ暗くなっていた。西に沈もうとする太陽が、周囲の島々をやわらかく照らし、その光を受けて海面がほのかに輝く。振り返って東の方角は、もうすでに闇が深い。近くの島の西半分はまだ明るいのに、東側は黒く暗い。海峡には2つ水道が設けられていて、潮の流れによって通過する水道が変わる。「にっぽん丸」は、島の中腹にある潮流信号所の指図に従い、右に舵を切るとゆっくり水道の一つに向かう。船が回ると、周りの島々が動き、景色が変わる。沈もうとする太陽が、左へ移る。そのとき、島の縁から、一艘の小さな漁船が姿を現した。

 島影の 光と闇と 分くところ
   いさな採る舟 漕ぎいだしたり

 橋の下をくぐって来島海峡を抜けたころ、海はさらに暗くなった。周囲の島々がわずかな残照のなかで、黒々と空を限る。海と陸との境は、もはや判然としない。混然と一体になり、私自身も海山に抱きかかえられるようだ。このまま時間を止めて、海の上でじっとしていたい。そんな心持ちさえしたのである。

(掲載日:2009/11/05)