7月1日づけで、正式に三田へ引っ越した。それ以前から新しい仕事をぼつぼつ始めていたけれど、この日で正式に総合政策学部長の役目を終えた。
数日後SFCへでかけ、自分のオフィスへ足を踏み入れたら、机の真ん中に大きなコンピューターのディスプレイが置いてある。「だれだ、私の机の上に、勝手にこんなもの置いて」。一瞬そう思って、すぐ気づいた。いけない、ここは國領新学部長の部屋だ。私はそのとなり理事の部屋に移ったのを、忘れていた。理屈ではわかっているのに、2年間この部屋で仕事を続けたためか、足が勝手にそちらへ向かう。その後数回、まちがって國領さんの部屋に足を踏み入れた。学部長ごめんなさい。この癖ようやく取れました。もう不法な家宅侵入はしません。
SFCの学生諸君は、三田キャンパスにあまりなじみがないかもしれない。私の部屋は旧図書館と新図書館にはさまれた塾監局という名前の古めかしい建物、その2階にある。よく「三田の山」というけれど、暑熱のこの時期、田町駅から10分弱歩き、東門の階段を登って三田山上へたどり着き、さらに塾監局の2階まで一気に上がると、相当息が切れる。汗が噴き出す。自宅からJRの駅まで20分、田町から三田キャンパスまで10分、これを往復とも歩くのが、私の通勤時の運動になった。
塾監局は、戦争中にほぼ全焼した三田の山で生き残った、数少ない建物の一つである。建てられたのは大正15年。だから古い。1階や地階の一部は天井が低くて頭をこすりそうだ。3階の男子便所にはなぜか中に鉄製のラセン階段があって、上に向かって伸びている。ははん、これは4階に福澤先生の隠れ家があって、夜中になると見つからないようにそっと降りてこられる。そうに違いないと、私は密かに確信している。実際塾監局には、夜中幽霊が出るという噂がある。
私の部屋はSFCの学部長室に比べると、狭くて暗くて息苦しい。背後の比較的小さな窓からしか、光が入らない。だからいつもドアを開け放しにしている。でも周りを見たら、他の理事はみな扉を閉めている。これが三田の流儀であるらしい。実際、SFCからくると、三田はいやにかしこまっていて、多少やりにくい。ドアを開け放して大きな声で議論をしていると、前をどこかの会社の社長さんが通ったりして、具合悪い。そういうときは閉める。あんまり他の人の迷惑になってもいけない。
三田の人たちは私のことを「ちょっと」変わっていると思っているらしい。「ちょっと」どころではないとう声もある。ある日担当秘書のMさんに訊かれた。「先生って日本人ですか?」絶句して「えっ、100パーセント純粋の日本人だよ。遠い先祖は知らないけれど、どうして」と答えると、「だって、普通の日本人とは思えないんですもの。歩き方とか、話し方とか。みんなそう言ってますよ。でも本当は4分の1くらいガイジンでしょう」。それ以上、ナーンにも言えない。みなさん、SFCの人は気をつけましょうね。三田に行くと、火星人か外国人に間違えられますからね。
三田へ移って何が変わったかと、よく人が尋ねる。もちろん仕事の内容が変わった。SFCより三田にいる時間が長くなった。それにともなって通勤経路が変わり、始終新幹線が見られるようになった。昼の食生活は質が低下した。学食は混むし、あんまりおいしくない。(これ本当です。SFCの学食はおいしい)。外に出るのも面倒くさい。それで時々食べそこなう。会議が多くなった。しかし私にとってもっとも大きな変化は、出張が増えたことだろう。特に私はSFC担当に加え国際連携担当なので、時々外国に出ねばならない。
実際この仕事について2ヶ月ほどのあいだ、すでにニューヨーク、ロサンゼルス、そしてロンドンと3回出張した。それも数日で帰ってくるから、ちょっとしんどい。体力に自信がないので、あんまり無理な日程は組まないようにしているが、これからも出張が重なると思うとおそろしい。
でも正直に白状すると、私は遠いところに旅をするのが嫌いではない。もちろん目的地に着くと日中は仕事をしているのだが、ふとポッカリ空く時間があって、普段とは違う場所にいるのに改めて気づく。夜になって床に入り、時差のせいで早く目覚めると、いつもとは違う朝がくる。ホテルの窓から光が差し込む。外を見ると、そこにはニューヨークの摩天楼、さんさんと降り注ぐ日光を浴びるカリフォルニアの糸杉の並木、あるいはミュージカル、「メアリーポピンズ」に出てくるロンドンのスカイライン。ニューヨークではパン職人がまだ暗いうちからベーグルをオーヴンに入れて焼く。ロサンゼルスでは日が昇る前からフリーウェーを通勤の車が走りだす。ロンドンではテムズ川の水面に風を受けてさざ波が立ち、朝日を受けてきらめく。それぞれの朝、人々が忙しく働きはじめる。
朝はいい。特に夏の朝はいい。一日中働き、いやなことがあってくたくたになっても、夜が明けると朝がくる。また一日やろうという気が起こる。どんな場所でも、たとえ天気が悪くても、世界中で少しずつ時間を変えて、朝が来る。いろいろな問題を抱える慶應義塾の各キャンパスにも、朝が来る。必ず来る。
谷川俊太郎の若いときの詩に「ネロ」というのがある。そのなかに、こんな一節があった。
「そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している
メゾンラフィットの夏
淀の夏
ウィリアムスバーグの夏
オランの夏
そして僕は考える
人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうと」
私もまた、いくつかの夏と、いくつかの夏の朝を思い出して、考える。私はあと何回位の朝を迎えるのだろうと。
ロンドンからの帰路、ヒースロー空港を離陸した日本航空のボーイング777-300は、ウィンザー城とテムズ川の上を旋回しながら高度を上げ、水平飛行に移るとイングランド上空を北東へ針路を取った。北海に出ていくつかの島を通りぬけ、フィンランドの海岸線とロシアの大地を見下ろしながら飛び続ける。眼下に広がる平原で、いくたびもいくさが戦われ、国が起こり、国が滅び、夥しい数の人が死んだ。けれども1万メートルの上空からは、日の光をななめに受けた陸と海とが茫洋と拡がるだけで、まるでそんなことは全くなかったかのように静かで穏やかである。
やがて陸は暗くなり、雲がかかって見えなくなった。夕陽を浴びた西の空が茜色に輝きはじめる。東に向かって飛んでいるのに、飛行機が次第に緯度を上げているためか、もうすっかり傾いた太陽がなかなか沈もうとしない。それでもようやく日が落ち、残照も消えて、大空に夜の帳が下りる。食事をすませブラインドを閉めて、乗客がめいめい北の空で眠りにつくころ、SFCでも三田でも夜が明けはじめ、また朝が来る。
(掲載日:2009/08/20)