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2009.03.30

春浅き生駒ヶ岳に日は沈み|阿川尚之(SFC担当常任理事)

三月初旬、しばらく学部長の仕事を忘れて、奈良を訪れた。天理市立図書館で講演を頼まれ、それを機会にいくつか寺を歩いて回った。
講演の前日、京都駅を特急で定刻に発車、近鉄丹波橋、大和西大寺と停車して、36分で近鉄奈良駅に到着する。この特急は学生時代奈良を訪れるたびに、よく乗った。昔はおしぼりが配られ、丹波橋には停まらず奈良まで33分で到着した。それ以外は、あまり変わっていない。当時ビスタカーと呼ばれた二階建車両を中二両連結した四両編成のビスタEX30000系電車が、いまだに走っている。
ホテルに荷物を置き、暮れ方、高畑町の辺りを歩く。新薬師寺から春日の杜の原生林を抜けて、奈良町へ戻った。途中、鹿の家族に出会う。小鹿が参道を横切るまで、父鹿が辺りを用心深く警戒していた。翌朝、興福寺国宝館で、東京へ旅発つ直前の阿修羅さんに対面。そのあと、近鉄奈良駅から大和西大寺で乗り換え、西の京の唐招提寺と薬師寺の横を走り抜けて、平端経由、天理へ向かう。

講演に招いてくれたのは、天理市立図書館で子どもの本の運動を長年続けるNさんとそのお仲間である。昔々、児童文学者の石井桃子さんが「かつら文庫」という小さな子供の図書室を、自宅で開いた。小学校へあがる直前であった私は、開設の日から約五年間、毎週日曜日この文庫に通い、本を読む楽しさを知った。子どもの図書館運動は、「かつら文庫」からやがて全国へ広がる。石井さんが「かつら文庫」の記録を綴った本に写真で登場する私は、絶滅危惧品種として、この世界で少々名を知られている。
そんな縁で、八年ほど前、天理へ招かれ、市のホールで「かつら文庫」の思い出と子供時代の読書について話した。今回は二度目だから、同じ話をするわけにいかない。それなら文庫を卒業して中学生になった私が、奈良にあこがれ、長い闘病生活のあと、高校・大学時代に奈良の寺を歩きまわった話をしよう。そう決めた。
振り返って、あの頃どうしてあれほど何回も奈良を訪れたのか、自分でもよくわからない。小学校六年生の最後の冬、家族で京都・奈良の旅をして、東大寺を初めて訪れた。中学の国語の授業で、佐々木信綱の「行く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一片(ひとひら)の雲」という歌や、堀辰雄が戦争中奈良を歩いた感慨を記した随筆「大和路」の一部を読まされた。大和の寺や仏像を愛した会津八一の歌にも親しんだ。一緒に遊んでくれる彼女はいなかったし、多感で孤独を愛する青年時代の私(今も少しも変わっていない)は、学校が休みになるたびに、学割で東海道新幹線「こだま」に飛び乗って奈良を目指した。かばんに、会津八一の「自註鹿鳴集」と堀辰雄の「大和路」が収められた文庫本を入れて。
学生時代のことである。東大寺戒壇院からそんなに遠くない低料金のユースホステルにたいてい泊まった。そして大和の寺を片端から訪ねて歩いた。東大寺、薬師寺、唐招提寺、法隆寺といった主要な寺だけでなく、奈良市周辺の法華寺、海龍王寺、秋篠寺、新薬師寺、白豪寺。北へ足を伸ばして浄瑠璃寺、岩船寺。南西へ下って中宮寺、法起寺、法輪寺、南東の方角へ長谷寺、室生寺。さらに飛鳥から當麻寺まで足を延ばした。そして行く先々で、

「奈良阪の石の仏の頤(おとがい)に、小雨流るる春は来にけり」

「大寺のまろき柱の月影を、土に踏みつつものをこそ思へ」

「秋篠のみ寺を出でてかえり見る、生駒ヶ岳に日は落ちんとす」

など会津八一の歌とその解説を読み、堀辰雄の短編の、

「いま唐招提寺の松林のなかで、これを書いている(中略)。此処こそは私達のギリシアだ」

といった、今読むとかなり甘ったるい文章を読んだりした。
奈良に旅をしたのと同じ頃、私はアメリカに憧れはじめる。塾高二年の夏、交換留学プログラムに応募し、少年時代のバラック・オバマが歩いていたかもしれないハワイのプナホウ高校に六週間滞在する。法学部政治学科三年の夏には、ワシントンのジョージタウン大学へ留学し、そのまま慶應を中退して戻らなかった。留学中ホームシックになると、奈良の寺々を思い出した。そんなとりとめのないことを、今回の講演で話した。

講演のあと、その晩はNさんの友人で金春流のお能の家と縁が深い茶人のMさんのお宅で、家内と二人お点前に預かり、食事をごちそうになった。先回天理を訪れたとき一緒に山の辺の道を歩いたので、私が「山の辺ガールズ」と名づけた子供の本のお仲間数人が相客である。Mさんの家も、山の辺の道に近い。日が暮れて、すっかり暗くなった帰り道、西の空に眉月が昇り、さえざえと輝いていた。
堀辰雄が愛した奈良ホテル旧館に泊まった翌朝、Nさんのもう一人の友人Aさんが運転するヴァンで、山の辺ガールズたちが迎えに来てくれた。南へ走って、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿暗殺の決行を密かに謀った談山神社を歩き、それから飛鳥へ向かって石舞台と岡寺を巡り歩いた。あちこち梅が咲いている。石舞台の背後の丘では、枯れ木の先がほんのり紅くなっている。木の芽が出はじめる前、ごく短い時間見られる景色である。石舞台の巨石の隙間から日の光が一筋二筋差し込み、古人の墓のなかも心なしか暖かかった。

柔らかな光一条射し入りて、石の舞台に春来たるらし

やがて夕暮れどきとなり、東大寺二月堂のお水取りを初めて見学する。千二百余年、一度も休むことなく続いたという、伝統の行事である。おたいまつ、修二会とも呼ぶ。二月から準備が始まり、三月に入ると連日二月堂に大きな松明が上がる、お堂の舞台に上がった松明から降り注ぐ火の粉を浴びると、無病息災でいられるとの言い伝えがある。
早めに堂へ上がれば、松明を身近に見られるというので、一時間ほど前から舞台で待った。西の空はよく晴れて、日が沈んだあとも茜色に染まっている。空気が澄んで視界がよく、生駒の山が黒々と横たわる。その上空で金星が明るく輝き、西南の方向には、関西空港への着陸態勢に入った旅客機の灯りが、滑走路へ向かってゆっくりと下りていくのが見えた。
辺りがすっかり暗くなったころ、法螺貝の音とともに、童子と呼ばれる寺の人がかつぐ長くて重い竹の大きな松明が、音を立て、煙を出し、焔となって燃えさかりながら、二月堂横の登廊を上がりはじめる。あとから練行衆と呼ばれる修行僧の一人が上堂し、堂に達すると横から入堂して、木沓で床を鳴らしながら内陣へと走り込む。その姿は白い帳を通して外からも見える。文字通り、影法師のようである。その間松明は舞台のへりから突き出され、くるくると回されて火の粉が飛び散る。下で待つ大勢の人々からどっと歓声がわき起こる。我々の目の前をかけぬけ、飛び散る火の粉を、あとに続く寺の人が箒で掃いて手早く消す。
しばらくして二本目の松明が堂を上がる。また一人僧が入堂し、僧は足を踏みならしてお堂の奥へ入り、大松明は夜空に赤々とつきだされ、火の粉が再び降り注ぐ。三本目、そして四本目。途中で消えてしまったものも含め、全部で十本。舞台に上がって燃えるそれぞれのお松明の上に真っ暗な空が広がり、腰をかがめて見上げると、空には明るく光る金星が、その上には今まで堂の庇に隠れて見えなかった眉月が、上下にまっすぐ並んでかかっていた。

春浅き生駒ヶ岳に日は沈み、御堂のうちに僧の影あり

おたいまつ、み堂登りて赤々と、月に届かむ、星に届かむ

(掲載日:2009/03/30)