川田宇一郎さん
文芸評論家
2003年政策・メディア研究科修士課程修了、2011年同博士課程自主退学
SFCに入って驚いたのは、図書館がないことです。
もちろん本が大量に置いている建物は発見しました。しかし、そこは「メディアセンター」なんて呼ばれていた…。
学生同士で当たり前のように「メディアにいこうぜ」「メディアでさ」とか言い合っている中で、なにか釈然とせず、一人「図書館」と頑固に呼びつづけました。せっかく大学なんだから、本の匂い感じる「図書館」という言葉を愛したのでしょう。
とはいっても学部は文学部(西洋史)を卒業でしたが、SFCの院では、マーケティングと社会学を中心に講義をとりました。会社を休職中だったので、仕事に具体的に役に立ちそうなのと、もしかしたら役立ちそうなものを二つ選んだわけです。データマイニングとか多変量解析とか、実は入学するまで名前すら知らなかった言葉に、意味不明ながら面白く刺戟的でした。学部生用の統計の授業も聴講して、今思えば熱心でした。
しかしだんだん自分の関心に本当に役に立つ?と思ったり、言説分析という名の読書に興味が移ったりしながら、あっという間に修士卒業。また企業に復帰して、マーケティングやデータ分析の仕事をしたりしました(結局、退社しましたが)。
かつてデータマイニングで語られた神話にこんなのがあります。「大量のPOSデータから消費者行動を分析すると、オムツを買う人は、ビールも買うことがわかった。そこで売り場で両者を近くにおいたら売り上げ伸びた」…これは、どうも本当は、よくできた作文だったようです。しかし、思いもかけない意外な結びつきを、大量のデータから掘り出していけたらいいな、と思ったりするようになりました。
きっとそこらへんが今回書いた本…ネットワークする文学史にも役だっているのだと思います。
ではどんな本を書いたのか?
『女の子を殺さないために』(講談社、2012年)
いま電車ん中で前に座ったおじさまが「女の子を殺さないために」って本を読んでるよ。
なにそれ怖い(女の子を殺さんように、努力してるんかな・・・?)
こんなよくある(?)会話に象徴されるように、タイトルや表紙を見ても、一体なんの本なのかよくわからないかもしれません。今回、せっかく機会をいただいたので、簡単に内容を説明します。
現実ではなく、物語の世界では、女の子がよく死ぬ。それが例えば、連続殺人の推理小説なら、特段、不思議もないのですが、周囲の好意に満ちあふれ、誰も害意をいだいてないような平和な恋愛小説で。
たとえば『野菊の墓』とか『風立ちぬ』とか、『ノルウェイの森』とか。どうしてわざわざヒロインが死ぬ設定の必要があるのか…。これは結構みなさん共通する疑問ではないでしょうか。
最近でも、村上春樹『1Q84』のBOOK2が発刊された時も、自殺を匂わす終わり方で、「やっぱりまた春樹は、ヒロインを殺すんだ」といわれました(結局、続編では死んでないと判明)。
もちろんそこでは、だいたい決まりきった解釈があります。要するに、ウェルメイドな物語をつくるため。「ドキドキ要素」やら、「読者を泣かせる」とか。
また、もう一つ、「男性作家の都合」から考える立場からは、「男性的秩序の回復」とか「遊ぶ女への罰」という指摘がありました(とはいえ男性作家だけが女の子を殺すわけでもなく)。
しかし、どちらも、なにかピンとこない。エンタメ解釈でもなく、ヒロイン殺しを良いとか悪いとか意味づけるでもなく、物語を推進する引力として、なぜ、われわれ読者に必要とされたか。
それを解明するのがこの本になります。さらに、実際に女の子が特に死んでいなくとも、共通する引力が物語を動かしていることも明らかにしていきます。
しかし網羅的に事例を収集しても、きりがないので、象徴的な結びつきを扱いました。具体的には男女の一線を越える、つまりセックスがどうやら、トリガーになっている系譜です。
たとえば1980年代の村上春樹『ノルウェイの森』です。…初めてセックスしたら、ヒロインが激しく傷つき、どこかへ失踪する小説です(結局、京都の療養所で自殺する)。
そして、その原型となるような小説として60年代の柴田翔『されどわれらが日々』もあげられます。やはり小説の最後で、幼なじみの女の子とはじめてセックスした帰り道に、その女の子は、駅のホームから転落して重傷、やがて東北のどこか消え去るという内容です。
また逆の系譜として、60年代柴田翔と村上春樹に挟まれるように、70年代の流行作家の庄司薫がいます。
庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、〈これが恋愛小説だなんてことは全然考えていないよ。「少女と用心棒」がせいぜいなんだから〉と自己規定する小説です(「気をつけて」と呼びかけられる赤頭巾とは、もちろん狼にムシャムシャ食べられて死んだ童話の女の子のこと…ペローではそこで終わり)。この小説の「ぼく」は、好きな女の子からどんなに誘惑されてもセックスをなぜか回避します。そして、性を意識する前の男女の関係性「幼なじみ」をいつまでも守り続けていこうとする…
さらに庄司薫的なものが、現代のラブコメにつながる流れとして、氷室冴子『なんて素敵にジャパネスク』。この小説の主人公の女の子は、初夜を楽しみにしているのに、いつまでも初夜を迎えられない。そして、自分の理想の幼なじみの男の子を育成しようとする。
また庄司薫の系譜を成り立たせるプロトタイプとして、川端康成『伊豆の踊子』も再発見することになりました。…踊子と「私」は、お互いに好意を交換しながら、しかし「私」は、何もないまま唐突に東京に帰ると宣言、その帰りの船の中で、強烈な気持ち良さを感じる。これはなぜか。この本の題名が「女の子を殺さないために」なのも、セックスの回避をめぐって組み立てられた小説の系譜の目的を、探るためです。
ほかに召喚する作家は、古井由吉・坂口安吾・石原慎太郎・太宰治・サリンジャーなどなど、それぞれが意外な関係で結び付き合う…ネットワークする文学史です。小説や物語の成り立ち、製造方法についても考察しているので、小説を書くほうに興味ある方にも、読んでいただきたいな、と思っています。なるべく簡明な言葉で丁寧に書いたつもりですが、難解とという人もいます(どうしても既存の論理ではない世界を取り扱うことになり)。ご興味があれば、是非。
川田宇一郎 ブログ
http://aoikingyo.blogspot.jp/
(掲載日:2012/07/11)