田尻慎太郎
横浜商科大学商学部専任講師
1994年総合政策学部卒業
1996年政策・メディア研究科修士課程修了
「カトカン」と聞いても、今のSFC生は「それ誰?」とか「なんかSFCを作った人でしょ」という感じではないでしょうか。カトカンこと加藤寛先生が初代総合政策学部長だったのはSFC開学時の1990年から1994年の4年間に過ぎず、二昔も前のことですからそれも無理はありません。そこで、当時から2013年1月に亡くなられる前まで縁あって先生の教えを受けた一人として、SFCスピリッツの源たるカトカン・スピリットの一端をここでご紹介させていただきます。
私が初めて加藤先生にお目にかかったのは1期生の学士入学試験の受験生と面接官としてでした。当時の私が述べる未熟でトンチンカンなことに対しても「それはいいね」「こういうことを勉強したらいいよ」と熱心にアドバイスをくださり、面接が終わってみれば試験を受けたというよりもますますやる気にさせられたひとときでした。大学院では加藤先生と佐々木晴夫先生が主査を務める「行政改革と規制緩和」プロジェクトに参加し、そこで本を分担執筆して出版することになりました。締め切り日に三田のオフィスに集まって各自が書いた分を提出したのですが、当然、院生たちの原稿は未完成どころか穴だらけです。私たちはどれだけ怒られるかと戦々恐々としていました。すると集まった原稿を無雑作に重ね合わせた加藤先生は「よし、できた」と仰ったのです。あまりのことに私たちは唖然として顔を見合わせる他ありませんでした…もちろんその後、このまま出版されたらたまらないということで、みんなで一生懸命書き直したのは言うまでもありません(笑)。
加藤先生はかように人の力を引き出す天才でした。先生に「君、それはすごいね」と言われたいがためにがんばったというという人は数限りないでしょう。よく先生は「僕はなにも教えないのに、みんながどんどん勉強して僕に教えてくれる。こんな良い仕事はないよ」と嬉しそうに仰っていました。自分も大学教員になったいま、それがどんなにすごいことなのか呆れてしまうほどです。まさに教育の極意をつかまれていたに違いありません。
大学院修了後、私は研究所勤務や米国留学を経て2005年に嘉悦大学で講師として働くことになりました。ところが当時の大学では、教員はうちの学生はちっとも勉強しないとぼやき、学生たちはうちの先生の教え方では分からないと責任を押しつけ合うような状態になっていました。これは進学率が50%に達し高等教育がマス型からユニバーサル型に変化しようとしていた社会に、大学側が対応できずに起きていた現象でした。SFCで「未来からの留学生」として育てられましたが、ついにその未来がやって来たのです!
この状況を何とかして新しい大学を生み出すのが自分の使命だと勝手に思い定めて孤軍奮闘していたところ、幸運にも2008年4月に加藤先生が嘉悦大学の学長に着任されました。入学式の日の日本経済新聞朝刊に出した全面広告では「早速ですが、ここ、変えました」として教員の招聘・再構成、情報システムの先鋭化、24時間キャンパスの3つが挙げられています。着任初日でそこまで変えられるとは、国鉄民営化などで辣腕を振るい「改革の匠」と謳われたカトカンの面目躍如といったところです。
加藤先生は新しい挑戦に対しては大いにやれといった感じでしたが、スピードが遅いことには厳しかったです。「あれはどうなっているんだ」とよく問いただされました。第二臨調会長だった土光敏夫氏から学ばれた「改革はとにかくすぐやってまず60点を取れれば良い」んだというのが先生のモットーでした。そして加藤先生をリーダーにジェットコースターのような大学改革を行った結果、学生たちがこの大学に来てとても良かったと言って卒業してくれるようになりました。最後に先生から、君たちと改革ができて本当に楽しかったよと仰っていただけたことは私の人生の宝です。
2012年3月に学長を退任されて以降は、原発反対を世に訴えられて本も出版されましたが、1年経たずに亡くなられました。まさに最後まで改革にご自身の命を捧げられた生涯でした。私も今年度から新しく横浜の大学に移りました。これからもカトカン・スピリットで公に尽くしていきたいと願っております。
お世話になったたくさんの仲間の皆さんの名前を全て挙げることはできませんが、最後にこの場を借りて、長年にわたって加藤先生の秘書を務められ数多くのSFC生を支えてきてくださった貫洞玲子さん(写真中央、現横浜商科大学管理部長)に厚く御礼を申し上げます。