環境情報学部 特別招聘教授 金 吉晴
国立精神・神経センター精神保健研究所 所長
担当科目:特別研究プロジェクト 心的トラウマの理解とケア
慶應大学、湘南、とくれば誰しも憧れますが、まさかそこで自分が講義をすることになるとは思っていませんでした。そして実際にふれあった学生の皆様は私の予想を遙かにこえた、というより私にとって異次元の活力と才気に満ちあふれていて、今ではすっかりこのキャンパスの虜になりました。私が受け持っているのは、災害、トラウマによるメンタル面への影響とその対策です。ともすれば過剰に深刻になりがちな、あるいは表層的な理解に流れがちなこのテーマが、予想外に多くの学生の関心を集め、2019年夏の3日間の合宿でも熱心な質問や議論を頂いたことも、二重の驚きでした。臨床の立場からみると、トラウマの影響のひとつは無力感です。つまりトラウマをもたらす出来事やその影響について自分はもはや何もできないと感じてしまうことです。その対局にある支援はエンパワーメントと呼ばれますが、それは個人的な治療の場だけではなく、社会からのメッセージなど、様々な形で伝えられます。湘南藤沢キャンパスでの交流を通してはっきりと感じたことは、このエンパワーメントにつながる内発的なエネルギーが学生たちの中に豊富に備わっていることでした。
心理支援と結びついた科学のほとんどは、こうした内発的なヒューマニズムをどのようにくみ上げ、表現を与え、具体的な形や科学につなげるか、ということを考えています。私の専門である医療では「手当て」という言葉が使われます。素朴な癒やしの行為を示すこの用語が、医師による専門的治療にも用いられているということは、医療が基本的に素朴なヒューマニズムの延長に成立したことを示しています。と同時に「鬼手仏心」という用語もあります。「手当て」ほどには多く用いられていませんが、これは鬼のように恐ろしい行為を仏の心で行う、つまり外科の手術のように一見すると危害を与えかねない行為を、患者を救うために行うことを指しています。この場合には、それが患者のためになったのかという証拠、科学的なエビデンスが常に求められます。医療はこのふたつのバランスの上に成り立っているといえます。「手当て」が大切だといっても、消毒をしていない手を傷口にあてることはできませんし、コロナの患者にマスクもせずにハグをすることもできません。かといって「鬼手」に走りすぎると、冷たい、患者の気持ちをくみ上げない医療になってしまいます。近年の医学には特にその傾向が強いと言えるかもしれません。
精神医学においては、フランス革命以後の数十年間、革命の理想であったヒューマニズムが治療としても画期的な成果をもたらしたという夢のような時代がありました。すなわち、革命前に罪人と一緒に鎖につながれていた患者を解放し、人間は人間らしく扱えば人間らしくなるという基本テーゼの元に、庭園のある建物に移し、読書、散歩、ティータイムなどを提供すると、見違えるように患者たちは落ち着いたのです。これはmoral treatmentと呼ばれ、当時の医学誌に特集が組まれるほどで、ヨーロッパの各国にこの治療が広まって行きました(ちなみに道徳療法と訳されることもありますが、moral という用語は理性と対比させられた情緒といった意味もあります)。まさに、心の「手当て」をすることが、そのまま医療として成立したのです。この理念は現代でも失われたわけではありませんが、現代では、より良い治療のために脳科学に依拠した治療と、構造化された認知行動療法などを多く取り入れています。
トラウマの領域ではこの精神医療の歴史が圧縮して示されています。トラウマ支援に関わる人々は、被災者、被害者の苦しみを何とか和らげたい、「手当て」をしたいという素朴な気持ちに動かされていることが多いのですが、自分たちの関わりが本当に良い結果をもたらしているのか、それをどのように検討し、さらに良い関わりや治療を考えれば良いのか、ということは常に検証しなくてはなりません。トラウマの世界においてさえ「鬼手仏心」の要素は存在しています。このようなことを念頭に置きながら、私の講義ではトラウマについて現代の知見と問いを紹介しつつ、精神医療全体のあり方について、また他者の精神とその苦しみをどのように理解し、関わることが出来るのか、ということをご一緒に考えたいと思います。