ライプニッツの『人間知性新論』を読む授業での雑談であったか、学部時代のゼミの先生が「哲学者に政治なんて任せたら、とんでもないことになります」と言っていた。でも、先生、この著者は政治や法についてなかなかおもしろいものをほかに書いていますよ。そんな風に切り返せるほど勉強をしていなかった私は、授業を通して知っている数名の教員の顔をただ思い浮かべるだけだった。その先生方も、政治にではないにせよ、大学や学部の運営には常日頃尽力していたわけで、そのことに遅まきながら気づいたのは、自分が教員になってからのことである。
ずいぶんと昔のことを思い出したのは、ある哲学者が日和見主義について書いたものを読んだからである。名をルヌヴィエという。ゼミの先生は、ルヌヴィエのことに詳しい研究者としても知られていた。この哲学者の文章が雑誌に掲載されたのは1876年11月、つまり急進派と保守派の間で揺れるフランスで第三共和政の憲法(「憲法的法律」)が段階的に可決された翌年のことである。
日和見主義といえば、日本ではかつて学生運動の時代に「日和る」という言葉が生まれ、近頃も意味合いを変えて使われることがあるようだ。オポチュニズム、機会主義などの言葉に置き換えれば少しは格好が付くかもしれないが、中身は要するに同じであって、およそ評判の芳しいものではない。ところが、ルヌヴィエが擁護しているのは、意外なことにその日和見主義である。自分の企てがどのようなことになりそうかと考え、うまく進めるための時機と手段を選ぶ。まともな人なら、そのようなやり方に反対するはずがないではないか。ルヌヴィエはこう言うのである。
もちろん、ポイントは、どのようなタイプの日和見主義かということである。右を向いては左を向き、機をうかがうだけで時をやり過ごすことをルヌヴィエは良しとするわけではない。大切なのは、ある原則や理想をがむしゃらに押し通すのではなく、現在の状況において、それらをどのように、どの程度実現できるのか、その可能性を見きわめることである。原則を定めたうえで、その実行可能性を考慮するという二段階で進むのだから、ルヌヴィエの日和見主義は、守るべき原則を持たないことではなく、原則を漸進的に実行することである。革命とクーデタを繰り返したフランスがようやく共和政を軟着陸させることができたのは、当時、日和見主義者と揶揄された政治家たちのおかげであったと言ってもよいだろう。
思えば、中江兆民の『三酔人経綸問答』では、「其時と其地とに於て必ず行ふことを得可らざる所を行はんと欲すること」、これを「進化神」は嫌うと登場人物(南海先生)が語っている。もっとも、時と場所をわきまえることは、現状をなし崩し的に受け入れることではない。時代を下って、丸山眞男は、現実をいろいろな可能性の束と見なした。それらのうちのどれを伸ばし、どれを矯めるか。この判断を政治の理想や目標と関係づけていく考え方が大事であるという。どのような現実があるかという認識と、これからどの方向に自分たちは進むかという判断とを切り離すことはできない。
異国の古い論説を読んだことからいろいろと連想が広がったが、俗世での哲学の効用はともあれ、少なくともルヌヴィエの日和見主義はキャンパスの運営にもヒントを与えるにちがいない、と膝を打った次第である。
